「Project Cold」構造から考察する“血の人形”儀礼/藤川Q・ムー通
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「Project Cold」構造から考察する“血の人形”儀礼/藤川Q・ムー通

ムー民の皆様にファミ通の怪人編集者こと藤川Qがムー的なゲームを紹介する本コーナー……なのだが、今回取り上げる作品『Project Cold』はゲーム”ソフト”というわけではない。ネットプラットフォームを横断するミステリー作品を読み解く体験が、リアルタイムに進行している。

文=藤川Q #ムー通 #みやまん考察

※本記事はwebとSNSを横断して展開している参加型の不可逆ミステリー作品『Project Cold』の内容をベースにした考察です。本作はフィクションであり、本稿はその設定を前提に論じたものであり、記事中に記載されている団体・名称などは存在しない場合があります。

Project Cold

 Web上のさまざまなブラウザごしにアクセスできるさまざまなモノやコト(に見える情報)は、はたして実際に存在しているのか、それとも存在しないものなのか。この問いに、断言できるものはいないだろう。それは純然たる情報であり、触れることもかなわず、自身の五感で体感できるものではない。体感した気になるか……はたまた存在しているかのように“騙される”ことしかできない。
 インドにはタージマハールなる白亜の宮殿があるそうだけれど……そこに実際に行ったこともないくせに、私はその存在を疑わない。その理由は、だれもがそこにあると話をするし、写真などもたくさんの資料に散見するので、あるのだろうと思っているにすぎない。実際に行って触った人ならば、確かにあると信ずるに値するのかもしれないが、少なくとも、私にとってはいまのところはやはりただの“情報”なのである。となると、彼女たちもタージマハールも、あるのかないのかいるのかいないのか。
 だがしかし、実際のところスーパーミステリーマガジン“ムー”を愛読するムー民の皆様は、世界各地であったとされる無数の奇譚や体験談にまつわる情報に触れてきた方たち。つまり、不確かだが心惹かれるミステリアスな“情報”の中から、人間存在の深奥を看破せんとしてきたスペシャリストであるはずなのだ。

 日本で最も長く刊行され続けている超常現象専門誌であるムーと、同様にゲーム雑誌であるファミ通のコラボでお届けしている本コーナー“ムー通”では、これまでそんなムー民の皆様にこそお薦めしたいゲーム作品をご案内してきた。だが、今回は連載始まって以来、初めてコントローラーを握って遊ぶゲームではない作品――webを横断して展開している一風変わったミステリー作品『Project Cold』をご紹介したいのである。

 作品の舞台は、いまあなたがアクセスしているこのweb上すべて。
 2020年末より、神奈川県平塚市の六泉ヶ丘高校に通う女子高生が、つぎつぎと奇怪な死を遂げている。その原因は――“血の人形の呪い”が原因だとされている。実際に“平塚市”“血の人形”などと検索をしてみると、怪しげなオカルトサイトや、血の人形事件をまとめたWikiのようなページを目にできるはず。
 そこを見る限り、犠牲者となっている女子高生たちは、“都まんじゅう”という学生バンドのメンバーであることがわかる。

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女子高生バンド「都まんじゅう」は公式サイトやTwitter、YouTubeなどのアカウントがあり、ネットで定番の「弾いてみた動画」などもある。

 さらに、各人はそれぞれがTwitterアカウントを持っていたので、生前の彼女たちのTweetにリプライをすることもできたのだ。

 彼女たちに降りかかった“災厄”が、呪いによるものなのか、それとも何者かの連続殺人なのかは不明である。だが、この事件の真相を“解明”しようとしている“融解班”と呼ばれる有志たちがwebやTwitter、チャットツールのDiscordなどを用いて意見を交換し、昨年末の呪いによる災厄から今日に至るまで、日々さまざまな考察と推理を重ねてきている。

 この2021年の現代において、いままさに。“呪い”で人が死んでいる――

 この状況を、ムー民としては見過ごすわけにはいかないはず。前置きが長くなってしまったが、本稿では、この“血の人形”の呪いの正体に迫るべく、ムーならではの視点から光を当ててみることで、その呪いの構造を浮き彫りにしたい。
 ちなみに、呪いを解明せんとした有志ライターによる個人サイト“イマオカ・オカルト倶楽部”が先行して独自の考察を行っている。ぜひ公式サイトを参照してみていただきたい。

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「イマオカ・オカルト倶楽部」。https://www.imaoka-occult.com/

 はじめに断っておきたいのだが、本稿は“血の人形の呪い”についての一考察にすぎないもので、内容も“血の人形”儀礼を構造的に分解することで、新しい視点の提案を目指すもの。事件全体を解明するものにはなりえていない(残念ながら……それどころか、ミスリードになってしまう可能性すら孕んでいると言えよう)。
 なので、謎解きに挑む融解班の皆様には、あくまでもこういう視点もあると理解したうえで、うのみにすることなく参照していただければ幸いだ。願わくば本稿が、将来ある命を奪い続ける血の人形の呪いの禍を解き明かす道へとつながる、か細くも蜘蛛の糸の如き補助線のひとつにならんことを祈ってやまない。

人身供犠の歴史を知る

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 血の人形の呪いは、1987年4月20日未明に、平塚市の山中にて大学生のオカルトサークルメンバーが集い、“シラノ”なる存在を模した人形に自らの血液をささげた――ことこそが発端ではないかと噂されている。
 この山中の儀礼から戻ったサークルメンバーたちは全員が血まみれだったうえ、正気を失っていたという。しかも、その後皆病院へと搬送されたのちに命に別状はなく退院はできたものの――13日ごとに一人ずつが原因不明の自殺を遂げている。さらに、彼らの遺体のポケットには、“崇拝するシラノの元へ、我が胴体を捧げる”――などと記された紙片が見つかっており、頭部、胴体、右手足、左手足という6部位が、それぞれに対応しているものと思われる。つまり、何らかの儀式と関連した連続自殺だったのではないかと目されているのである。

 この奇妙な事件は、さらにその後――33年後の2020年10月19日に同じく平塚市のマンションにて発生した飛び降り自殺へとつながることとなった。飛び降りて死亡したA.Kさん(22)の衣服からも、“崇拝するシラノの元へ、我が右腕を捧げる”と書かれた紙片が発見されたのである。その後現在に至るまで10代から20代の若者たちが自殺と思しき謎の死を遂げ続けてきた。各人はやはり紙片を保持していたようだ(衣服から紙片は発見されていない犠牲者も存在する)。

 現代に起こっている事件だとはにわかに信じがたいような連続自殺だが、発端と思われる34年前に平塚山中にて催された“血の人形に関する集会の報道記録が事実であるとするなら、明らかに何らかの“儀礼”が行われたことは間違いなさそうである。大学生のオカルトサークルたちと、死後に遺体から発見された“崇拝するシラノの――”という紙片が共通項なのだから。

 本稿では、前述のようにこの奇怪な発端を宗教学的な“儀礼”の構造に当てはめてみたい。それによって、オカルトサークルのメンバーが何を目指していたのか。その深奥へと迫っていくものである。

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 そもそも、この血の人形の儀礼は何なのだろうか。まずは紙片の内容から考えてみる。

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 紙片の記述を見る限り、“シラノ”なる存在の元に、自らの身体の一部位を捧げる。これが儀礼の内容と関連する行為のようである。34年前の平塚山中での儀式と思しき集いの後には、参加したオカルトサークルメンバーは血まみれであったことから、血を人形に捧げていたのかもしれない。その場合――人形は“シラノ”なる存在の“依り代”と見るべきだろう。儀礼に用いられる人形は、何かの代理を務めるもの。シラノなのか、それとも儀礼における犠牲の代理なのか。

 いったいこの大学生のオカルトサークルとやらが、何を目的として集まっていたのかは不明である。だが、儀礼に血を伴うこと、そして人形を用いることから推察すると、やはりある種の“人身供犠”的な側面を持った儀式――を、目指していたのではなかろうか。

 現代人には誤解されがちだが、“オカルト”とは、決して悪魔崇拝だとか、いけにえを用いた怪しげな魔術を行うものではない。それは“隠された学問”であり、主に西洋社会のアンダーグラウンドで脈々と受け継がれてきた、人間存在自体に迫るための哲学――思想体系とでもいうべき学問の総称なのである。

 平塚山中のオカルトサークルは、こうした文化を研鑽するうえで集まっていたと仮定するならば、そこで執り行った儀礼は宗教学的にも伝統に乗っ取ったものであると考えられよう。
 余談だが、もしもそうはでないとするならば、この集いは男女の性欲におぼれた大学生たちによる、中世の魔女よろしくパーティー的な……むしろ、パーリーピーポーが出世してサバトになり、中世の如き乱交が行われていただけかもしれない。
 サバトのような乱交には、薬物が付き物であった。どこかのヤバい麻薬組織とつながった若者集団が、山中でいろいろあったのち、口封じで自殺に見せかけて殺害され……死体に仕込んだ紙片によって呪いだと偽装された。そんな可能性もあるだろう。だが、本稿ではあくまでも彼らはオカルティストとして研鑽し、山中にて儀礼に臨んだものと仮定したい。

 話がそれてしまったが、人類は紀元前から宗教や信仰に関連したさまざまな形での“人身供犠”を執り行ってきた。人身供犠とは、文字通り人間を何らかの形で神格へ犠牲として捧げることで対価を得んとする儀式。その多くは、農耕儀礼との関連が指摘されている。

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農耕との関連

 収穫の本質は、植物生成の力の枯渇こそを恐れるものだ。そのため、スウェーデンなどでは畑の収穫物の最後の穂は刈り取らずに残しておくといった風習が見られたり――その逆に、畑の最後(もしくは最初の)穂を刈り取る、といった儀礼が世界各地の農耕儀礼に散見される。最初か最後の穂にこだわる理由は、そこにこそ、全植物の力が凝縮されているという考え方のためである。興味深いのは、こうした植物の力の代理人たる役割として――“人形”が用いられる儀礼も数多く存在する点だ。

 ここではいくつか例を挙げるにとどめるが、ノルウェーでは最後の麦束で人形を作り、刈り入れ前の畑に投げ込まれるという風習が存在する。畑には“刈り入れ人”なる存在がひっそりと一年中隠れ住んでおり、農夫の麦を食べて生きていると信じられている。最後の穂はこの刈り入れ人が隠れている穂なのであり、その穂を使って人形を作るのだという……ちなみに、死神=リーパーの図像の多くが鎌を手にした姿で描かれているのは、命という稲穂を刈り取るからにほかならない。
 また、ブルガリアでは最後の穂を“麦の女王”と呼び、穂の束に女性の肌着を着せて村中を引き回したうえ、焼いて灰にしたり、川に投げ込んだりするそうである。

死と再生のシステム化

 やはりこの場合の人形の役割は全植物の力の代理人であると同時に、犠牲者の代理人でもある。一説によると、こうした風習はメソポタミアやエジプトから世界中に伝播したとも考えられており、実際の人身供犠の儀礼のシナリオの残滓ともされる。エジプトの冥界神であるオシリスは、元々は植物の再生を司る農耕神であった。彼は弟セトによって殺害され、遺体はバラバラに分断されてナイル川へと投じられたことでも知られている。その後、妻イシスによって遺体はつなぎ合わされて復活し、冥界の神としての属性を得ることとなるが、ここにも植物の力が宿った存在を分割・犠牲としての川(死と生の境界)への旅路の要素など、農耕儀礼の名残ともいえるエッセンスを見て取ることができるだろう。

 もうひとつ、残酷な例になるかもしれないが、かつてメキシコのアズテック人によるトウモロコシの収穫祭では、新しいトウモロコシが実った時点からちょうど三か月後に、畑でトウモロコシの女神“ヒロ―ネン”の代理人役を演じる娘の首をはねたという。娘の体はバラバラに分割されて畑の畝に蒔かれたという記録も存在している。

 こうした供犠が執り行われる理由――それはひとえに、植物生成の力の枯渇への畏れと、死を通じて再生へと至るサイクルのシステム化にほかならない。オシリスの体が分割され、冥界を旅したのちに復活を遂げるかのように。

劇団あかぐまと北欧神話

 人体を分割することと、人形というキーワードに注目すると、“血の人形の呪い”の発端のひとつであると考えられる34年前の平塚山中でのオカルトサークルによる何らかの儀礼は、古代の農耕儀礼としての構造を持つはず。そういった視座に立ってあらためて事件を俯瞰してみると、ひとつ非常にひっかかる情報がある。それは、連続自殺の犠牲者となった”都まんじゅう”メンバーである綾城奈々乃さんが所属していたという“劇団あかぐま”――そのロゴマークだ。

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 ロゴにはアルカイックな笑みを浮かべた真っ赤な熊の意匠が添えられているが、耳の部分を見ていただきたい。これは「ルーン文字」である。

 劇団のロゴマークに、ルーン文字!
 筆者ははじめは、この劇団は北欧神話専門の劇団なのか? なんてニッチな活動をしているのだろうかとひとり喜んでしまったが、上演してきた演目は、どうもとくに北欧らしい作品ではないようだ(こけら落とし公演には“魔法の靴”が出てきたようで、ロキとの関連を妄想したりしてしまったが)。

 ……だが、となると逆に疑問が湧いてくる。じゃあどうしてルーン文字、なのだ?
 公式サイトを調べてみると、資金は犠牲者が続出している学生バンド“都まんじゅう”のメンバーたちが通う六泉ヶ丘高校の校長が出資しているようだ。……しかも先日犠牲者として発見されたばかりの学生が劇団員として所属していたとは……なんだか、少し符号というか主張がすぎるようにも思えてくる。

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 しかも、この劇団のロゴマークの耳に記されたルーン文字は、向かって左はエイワズ=防御のルーンであり、イチイの木や魔術を意味するもの。また、エイワズはユルとも呼ばれるが、この名は――死神を意味している。イチイは猛毒でも知られる木でもあることを申し添えておくと同時に、死神はその農耕的イメージから死と再生を想起させる。
 一方の右にある文字は、ナウシズ=束縛や苦難を意味するルーンであると同時に、炎による災厄の回避をも暗示する。一説によると、北欧神話の主神オーディンが自らを犠牲として大樹ユグドラシルで首を吊り、ルーン文字を得たという苦難をも示しているとされるもの。

 余談だが、オーディンは主神であると同時に偉大にして狡猾なる魔術の神でもあるが、ユルの祭りとの関連から葬礼神としても知られている。冬至に執り行われるユルという祭りでは、その年最後の刈束と人形を用いた儀礼が行われる。
 主神オーディンは自らに自らを犠牲としてささげた神。どうだろう――地域に根差して30年以上活動してきた地元の劇団にしては、いささかオカルティックにすぎはしなかろうか……。オカルティストとしては、こんなロゴマークを掲出された日には、「あなた方、死と犠牲を意識している系の劇団なのでは?」などと勘繰りたくなる、というもの。くどいが上演演目はひどく和風で朴訥な印象のものばかりだが……(タイトルだけからの印象だけれども)。

 もちろん「ルーンがかっこよかったので」なんて理由で、偶然ルーン文字をあしらっただけ……なのかもしれない。この辺りは、劇団のロゴデザイン担当者に話を訊いてみないことにはわからないが、関係者が複数ニアミスを起こしていたりすることひとつをとってみても、いささか気になる団体である。しかも……さらに見逃せない要素がもうひとつ。

ベルセルク

 それは劇団あかぐまが設立された時期が、34年前――まさしく平塚山中にて大学生オカルトサークルによる事件が起きた翌年だったという点にある。
 平塚山中の儀式(?)への参加者は、全員が血塗れであり、同時に忘我の境地だったという当時の記録も存在している。
 これには、個人的にはおそらく何らかの薬物が関わっているものと推察する。人類は祭りや宗教儀礼ではしばしば薬物を用いてきた。
 参加者全員は血塗れでキマッていた(?)そうなので、何らかの薬物を用いてトランス状態になって儀式を遂行していたのではなかろうか。どんなイベントだろうと、フツーに参加していただけで、自力で“忘我の境地”に達するケースなど少ないだろう。

 とはいえ、本稿は薬物使用や入手ルートについての考察ではなく、あくまでも儀礼の構造に着目したいので、この辺りについてはこれ以上筆を進めないでおきたい。薬物からも組織ぐるみの関与などの可能性もあるのかもしれないが、そういうのは警察に任せておくことにしよう。

 ここであらためてスポットライトを当てたいのは、しつこいが劇団あかぐまのロゴマーク――その色である。あかぐま、というだけあって、真っ赤である。そう、真っ赤――。

 オカルトサークルのメンバーは、全員が血塗れかつ忘我の境地にあったというが、北欧神話では、まさに全身が血塗れになっても戦うのをやめない狂戦士“ベルセルク”の伝承が存在している。ベルセルクは、忘我の状態でまさしく狂ったように戦いをやめない戦士であり、敵味方の境なく目の前の相手を殺戮するとされる。そんなベルセルクの名には、熊の毛皮を纏った者という意味を持っていると同時に、この狂乱と野獣の力もまた、オーディンから授かったものであるとされている。
 自らの血を人形に捧げていたという時点で、ベルセルクのように、理性や意識は失っていたとしてもおかしくはないだろう。

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シラノは何か? 神格・代理人説

 古来演劇は宗教儀礼やイニシエーションとしての機能を持ち合わせていた。それだけに、ロゴマークから、どうしても北欧葬送神から農耕儀礼としての人身供犠との関連を想起してしまう劇団あかぐまだが、これはいささかオカルティストとしてのうがった視点かもしれない。
 というのも、あらためて公式サイトを見てみても、まるでそんな雰囲気は感じられないからである。こればかりは、彼らの公演を実際に観てみないことにはなんとも言えないところだ。いくつかはDVDが発売されているとのことだが、一般流通はしていないようだ……メルカリとかで買えるのであれば観てみたいものである。

 閑話休題――

 さて、ここまで論を進めてきたが、最後にもうひとつだけ見過ごせないキーワードが手つかずのまま残されてしまっていた。それは、紙片に記載されていた謎の存在――“シラノ”についてだ。

 シラノといえば、かの有名な戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』が浮かぶが、彼はそのまま同じ名前でSFの先駆者ともされる人物として実在している。ここでも演劇的なファクターがちらつくせいで、またも劇団あかぐまのうっすらとした笑みを浮かべた絶妙なロゴが頭をよぎるが、問題はやはり紙片の記述である。

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 “崇拝するシラノの元へ、我が(身体部位)を捧げる”とある、不気味な文言。もちろん、この紙片は死体に後から持たされたもので、呪いを偽装したものなのかもしれない。
 
 だが、やはりムー民としては、この崇拝されるシラノなる存在が、何らかの神格であると仮定し、あくまでも“神格・代理人”として身体部位を捧げられる対象であると考えたいところである。

 その神に求められる属性は、農耕と関連があることと、自己犠牲的な要素を顕すこと。

そうした観点から考えてみると、エスキモーに伝わるシャーマニックな神としての“シラ、あるいはシラー”が近しいものとして挙げられる。
 シラの存在を仮定するのであれば、この血の人形儀礼こそは、巫女や巫術を中心としたシャーマニズム的な側面からの、死と再生の儀礼としても見立てることはできはしないだろうか。

シャーマニズムと肉体破壊の幻視

 シラ、あるいはシラーと呼ばれるものは、エスキモー・シャーマンたちにとって、正確には神――というよりも、言語を超越したあらゆる生命を支える精霊であるとされる。それは無限の虚無であり、誰一人その姿をみたものはいない。
 シャーマンとは、コミュニティにおける力の管理者であり、神秘的な治療、啓示、芸術活動、儀礼をトランス状態で執り行うだけでなく、しばしば死者の世界への下降を幻視するという。死者の国への旅からの再生は、ここまで見てきた人身供犠を伴う農耕儀礼の構造とも符合しよう。
シャーマンは、自身が死を体験する――ことで死者の国へと渡るのである。

 エスキモー・シャーマンはイニシエーション=入門の儀礼で、貪欲な精霊に四肢を切断されるという壮絶なるビジョンを体験する。入門者は四肢を切断されたのちに、再び高次の秩序的存在によって――四肢は繋ぎ合わされ、復活するのである。
 こうした破滅を通じて教えがもたらされるという恐るべき試練について、シラは「恐れることはない」と入門者にささやくのだという。

シャーマンが幻視する四肢切断のビジョンは、はたから聞いている我々にとってはただの幻覚なのかもしれない。だが、本稿の冒頭で書いたように、シャーマン本人にとってはそれまごうことなき現実なのだ。

 シラノがシラなのかどうかはわからないが、どちらにせよ、血の人形――その儀礼は、“死と再生”を目的としているように思えてならない。
 亡くなった犠牲者が戻ってくることはないだろうが、ひとつ言えることは、彼女たちはある意味で実在しているのかどうかもわからないのだ。エスキモー・シャーマンが幻視したように、彼女たちの四肢も、再び高次存在によって繋ぎ合わされることがないと誰も断言することも証明することもできはしないはずだ。
 血の人形が農耕儀礼をルーツとした現代の人身供犠であるのなら――その目的は死を通じた再生であるはずなのだから。

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本稿は考察です。『Project Cold』はフィクションです。

『Project Cold』は、現在まさに死と呪いの真相に迫るために、推理と考察が過熱している最中。興味を持った方は、ぜひ公式サイトと公式Twitterあたりから情報をたどっていくことで、現実と仮想のはざまで、まさに起こっていた事件の謎に挑むことができます。



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