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日本とユダヤの秘史を見抜いたキリスト者・古屋登世子と「万教帰一」思想/不二龍彦

郷里の山梨県では女性の英語教育家として、また女性の地位向上に貢献した偉人としてその名が知られる古屋登世子(とよこ)。
だが、それらの顔はあくまでも彼女の一面にすぎない。希代の才女の後年の人生は、まさに霊能とともにあったのだ。

文=不二龍彦

日本初の女性通訳として華々しく活躍

 古屋登世子(とよこ)の名は、今ではほぼ忘れ去られているが、彼女ほど生きることの苦しみを舐め尽くし、苦悶の果てに宗教的な安心境に到達した霊能者を、筆者は知らない。その類い稀な霊能については後述するとして、まず彼女の職業婦人としての華々しい活動から紹介していこう。

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昭和30年ころの古屋登世子。

 登世子は明治13年(1899)、甲府で生まれた。父は新選組の参謀長として知られ、維新後はキリスト教に改宗して布教に従事した結城無二三(むにぞう)。母は三河譜代旗本の前田家出身でマツという。両親の薫陶を受けた登世子は、物心ついたときからキリスト信仰者の道を歩んだ。
 頭脳は明晰で、深く文学の世界に沈潜した。とりわけ『万葉集』と『古今和歌集』に耽溺し、古今集は暗誦するまで親しんだが、少女時代になると、明治に勃興した新文学に惹かれ、同時に英語にものめりこんだ。
 学校は、東京麻布の東洋英和女学校に進学した。同校はカナダのメソジスト教会から派遣された宣教師が開いた女学校で、赤貧だった結城家の娘にはまったく不釣り合いのお嬢様学校だったが、無二三がメソジスト教会の福音士だった関係で、授業料免除の校費生として入学することができた。
 抜群の成績で専門科までの過程を終え、明治33年に卒業した登世子は、キリスト教系の女学校で教職に就いたが、明治35年、人の勧めもあって文部省英語中等教員検定試験を受験した。
 甲府での一次試験は、登世子ひとりが合格した。翌年、東京の文部省で行われた二次試験にも合格し、登世子は栄えある女性合格者第一号となった。
 その後、母校で教職に就き、通訳養成科と婦人伝道者養成科を担当したが、報知新聞編集部長だった兄の口添えで日本初の女性通訳として仕事を開始してから、華々しい活躍が始まった。堪能な語学力に加えて女性通訳という物珍しさも手伝い、引く手あまたとなった登世子は、以後、政財界の要人に重用されて来日名士の通訳を務め、名声は日に日に高まった。

 日本の紡績王と称えられ、硬骨の言論人としても知られた武藤山治(さんじ)の伝記は、「武藤はこの婦人(登世子)の通訳ぶりに感心し……国際的なパーティには必ず招いて、接伴役を頼んだ」(『武藤山治』有竹修二)と記している。
 時代の最先端をいく通訳としての地位を確立した登世子は、やがてYMCA(キリスト教青年会)所属の通訳に採用され、活動の場をさらに広げていった。けれどもこの道は、すぐに塞がれるのである。

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