「将門塚の祟り」は1976年起源だ!/吉田悠軌・オカルト探偵
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「将門塚の祟り」は1976年起源だ!/吉田悠軌・オカルト探偵

江戸の総鎮守、東京の地霊、あるいは日本最大の「祟る神」。さまざまな呼び方で畏怖される古代の武将、平将門。東京大手町の将門塚はその首を供養した聖地、霊域として名高いが、「塚の祟り」が取り沙汰されるようになったのは意外に近年のことだった!

文・写真=吉田悠軌 #オカルト探偵

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吉田悠軌(よしだゆうき)
怪談サークル「とうもろこしの会」会長、『怪処』編集長。今回の写真は取材に際し、将門公の仮祭壇に参拝中の一枚。

オカルト探偵・吉田悠軌による解説動画はこちら!

将門塚ブームのルーツを探る

 厳しい禁足の聖地というほどではない。むしろ庶民的な信仰の場、参拝者が絶えない東京の観光地でもある。ただもし不敬に「いじって」しまえば、たちまち強大な祟りをおよぼすだろう……。
 それが、平将門の首塚=将門塚に対しての一般的イメージのはずだ。あの大手町の狭い一画こそ、日本でもっとも知名度の高い「祟る場所」なのである。

 たとえば、こんな噂も有名だ。
「1990年、爆笑問題・太田光がテレビロケ中、ふざけて将門塚の石碑を蹴り上げた。その祟りによって3年もの間、コンビは仕事を干されてしまった」
 この行動については、太田自身がたびたび言及しているので事実だろう(※1)。ただ、1990~93年にかけて彼らの仕事が閑散期だった原因は、事務所独立によるものとハッキリしている。にもかかわらず将門塚の祟りとの関係ばかりもてはやされるのは、それが「近年の日本人が好む伝説像」だからだ。
 そう、将門塚が祟るとの「伝説」が周知されたのは、意外なほど「近年」なのである。

 もちろん当地の「祟る場所」としての歴史は古い。
 1305(嘉元3)年、芝崎村にて疫病が蔓延したため、真教上人が将門の怨霊を神田明神として祀り、日輪寺に供養して鎮めたとされる。そして神田明神は江戸時代に入り、江戸城および都市の開発に伴い、現在の場所(外神田2丁目)へ移動。
 現在の将門塚の地はその後、酒井家上屋敷の庭の一部となったが、祟りめいた噂が出ることはなかった。同屋敷にて伊達藩士4名が死亡した「伊達騒動」の際にも、塚との関連は(少なくとも大っぴらには)取りざたされていない。

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