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笑っているんですね/読者のミステリー体験

「ムー」最初期から現在まで続く読者投稿ページ「ミステリー体験」。長い歴史の中から選ばれた作品をここに紹介する。

選=吉田悠軌

笑っているんですね

兵庫県 47歳 木村茂子

 忘れもしません。地下鉄を利用するたびに思いだします。ある若い男性の笑顔です。

 数年前のことです。地下鉄の駅でした。午後2時ごろだったと思います。私はホームの壁にもたれて、電車が来るのを待っていました。そのときです。
 カラン、コロン、カラン、と今どきめずらしくゲタの音をさせて、25〜26歳のほっそりとした男性がにこにこ笑いながら、ホームの白線の上を歩いていました。何かとてもうれしいことでもあったような、いかにも楽しげな笑顔で、見ている私のほうまでつられてほほえんでしまいました。
 その男性が、私の前を通りすぎ、5メートルほど行ったあたりで、ゴオーッという電車の入ってくる音がして彼が立ちどまり、私も壁から離れました。

 やがて先頭の車両が見えて、スピードを落としながらホームにすべりこんできた次の瞬間、私は思わず息をのみました。
 なんと、あのゲタをはいた男性が、まるで小さな川でも飛びこえるような気軽さで、その電車の前に飛びこんだのでした。

 ギーッ、ギーッ、ギーッという、ものすごいブレーキ音。
 今までに聞いたこともないような、イヤな音でした。
 電車がホームの中ほどで止まり、人々は口々に「なんだ⁉」「だれか飛びこんだぞ‼」と叫びあっています。
 駅員が4〜5人、ホームの上を駆けまわり、車輛の下をのぞいたひとりが「だめだ、こりゃあ……」というのが聞こえました。人々が次々とその場所に集まります。私も、気がつくとそっちへ向かって駆けだしていました。
 人々の間から線路をのぞくと、あの男性の背中が見えました。うつぶせになっているのです。そして彼の頭の上には電車が乗っていました。そのあたりが、真っ赤な血に染まっています。即死だったでしょう。

 目の前の光景が、すぐには信じられませんでした。ほんのさっき、彼はあんなうれしそうに、にこにこと笑いながら私の前を歩いていたのです。
 私は背筋が凍る気がして、思わず「ナムアミダブツ」とくりかえしながら急いでその場を離れました。そのあと、どうやって家まで帰ったのか、はっきりとは記憶していません。ただ、玄関に入る前に家人を呼んで、身を塩で清めてもらったことだけはおぼえています。

 自殺する人って、笑っているんですね。魂の抜けがらなんだそうです。きっと、あの男性の魂もあのときにはもう、どこかへ行ってしまっていたのでしょう。私はあのとき、すでに魂の抜けてしまった人間の笑顔を見たのです。あの笑顔が、今も忘れられずにいます。


(ムー実話怪談「恐」選集 選=吉田悠軌)

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